まよなか

意味はないです

未来に連れていかれる話

年が明けました。

あらためて、あけましておめでとうございます。

 

気付いたら三が日も終わりかけているし、何か大きな決意表明をするでもなく迎えた2017年。

強いて言うなら今年は部屋に植物を置こうと思っていて。思いつきで実家の庭の松の木やら植物やらを少しいただいて新年らしいスワッグを作りました。もう2017年の目標達成しました。もう少し長期的な目標を作るべきなのかもしれない。

 

少し去年の話をします。CDのジャケットを作る仕事を終えた秋。ご縁ということで引き続き来春までのお仕事をいただくことになって、あぁ4月まで休みはないなぁと思っていた去年の暮れ。(とてもありがたい)

そんなことを思っていると、何通かメッセージが届きます。詳しい内容は伏せるけれど、作ってほしいものとか、一緒にやろうかとか、つくることに関するお声がけをいただきました。 

メッセージが届いたとき「ウワー!」となった。これは嬉しくも辛くもある悲鳴。もう春まで休みはないぞ!そう言われてる気がした。正直学生のうちにやりたいことはやっておきたいし、できる範囲で無理なこともしたい。そんな風に思ってた。思ってたけど実際お声をかけていただくと「マジか……」という気持ちが強くなるのが正直なところ。勿論すべての返事はイエスにして、その日は「これからどーしよー……」と思いながら眠りにつきました。

 

とりあえず私の周りには、春に解かれるような約束が多い。今手元にある納品日とか約束は全部春のこと。どれだけ私を春に連れていきたいの……。

 

 

 そもそも卒業できるか分からないし研究もまだまだやることあるし、直近の目先は真っ暗なんだけど、なんでそんなに春の約束ばかり増えるのか。

 

 

でもこれがもし予定調和だとしたら?何が何でも春には笑わせてやるぞって誰かが仕組んでいるとしたら?それはそれで嬉しいな。

多分、自分を1年間走らせるための新年の目標なんてなくても大丈夫かもしれない。いまは目の前にあるものとしっかり向き合って、ひとつひとつ結果を出していこう。そうすればとりあえず春までは走れるんじゃないかな。

 

呪いは解けて

「逃げるが恥だが役に立つ」の最終回で、石田ゆり子のセリフにこんな言葉がある。

 

私達の周りにはね たくさんの呪いがあるの。

 

私の周りにも呪いがあると思う。あった、と言う方が正しいかもしれない。

雁字搦めにしていた呪いはいつの間にかほどけ始めていて、このまま2016年に置いていくことになりそう。

 

 

ほどけた呪いをひとつひとつ見つめ直す。私の呪いは自分への厳しさだったと思う。

 

もともと完璧主義であるし、自分の中で納得してないものやかっこ悪いところは他の人には見せたくない。自分に厳しいと言うと向上心の塊のように思えるけれど実際はそんなことはなくて。自分の成果にはこだわるけれど弱いところからは目を背けるのだ。今思えば厄介すぎるな。

けれど気付いたらなんとなく周りが遠ざかっていることに気付いて、「あぁこのままじゃ本当にひとりになるな」って。このスタンスにもそろそろ限界が訪れたようだった。

 

さすがにひとりにはなりたくなかった。

ひとりきりで生き抜けるほど強くはないし、私だって誰かから愛されたい。

 

でも誰かからの愛情に気付くにはどうやら自分を愛することが必要らしくて。

そこからはずっと、自分を愛するとはなんぞや……?と思っていた。ナルシストとか自己愛とかではなく、どうやったら自分のこと許せるのかなって。「そのままでいいよ」って自分に言ってあげるにはどうしたらいいのかなって。

 

呪いが解けた原因はよく分かってない。ごめん。でも、自分に優しくなりたいって、そのままでいいよって言ってあげたいって思えてるだけでもしかしたら十分だったのかもしれない。

そう思えたらちょっと楽になった。別に0か100かで好きにならなくてもいいんだ。グラデーションでいいから。

 

 

複雑に絡まった結び目がほどけたら、あとは一本ずつ焦らずほどいていけばいいんだよね。

呪いはまだ少し残っているかもしれないけれど、それすらも許せたらなぁなんて思う。

付き合ってみる?

手の動きが自分の思考を支配することがよくある。文章を書いているとき、なにかを作っているとき、絵をかいているとき、もう目の前にあるもの以外のことが考えられなくなる。いわゆる集中と言われるものだと思うのだけど、脳を乗っ取られてる感覚に近い。そうやって苛々を募らせていた些細なことを忘れていくのが好きだ。
 
そういえば、昔から何かを作ったり書いたりすることで自分のイライラを解消させていくタイプだった気がする。作品を他人に褒められても、実際はそのまた他人に対する怒りや苛立ちをぶつけているだけだったりする。そんなことはつゆ知らず、みんなはいいねというのだけど。
 
作ることに対するエネルギー源になり得るなら、怒りだって悲しみだって自分の中に居てもいいんじゃなかろうか。結局全部自分だし、居てもいいよって言ってあげてもいいのでは。

わたしはしろくま

最近は卒業研究のおおまかな見通しが立って、あとは自分で手を動かして作るだけ、という状態になってきている(決して進みが早いほうではないしもっと進めているひとはたくさんいる)。

 

それでも見落としていたり積み残していたりするところはあるわけで、今日はそこを先生と話しながら詰めていた。

そこで、話しながらふと思いついたことがあって先生に話してみたら「それいいじゃん!やろう!」とのこと。

 

 

ほんとに、いいじゃん!ってただそれだけのことなんだけど、久々にめっちゃワクワクした。

 

 

あ、自分が作りたいと思うことを肯定してもらうのってこんな嬉しいことだったんだ。と、そんなことを思った。

 

 

うちの研究室はいわゆるプログラミングがほぼ必須のスキルになっていて、

どちらかというとプログラミングが得意で、もしくはそれを使って何かを作るのが好きで配属を希望した人が多い。

 

そんな中で私はどちらでもなくて、プログラミングは得意どころか大の苦手で、それを使って何かを作ってくれと言われたら間違いなくNOと言うだろうな。よくそれで配属を希望したものだ。希望した理由はそれなりにあるのだけれど、それはまたいつかの機会に。

これまでに演習で何度単位を落としかけたか分からないし、首の皮一枚繋がったような状態で生きてきた気がする。

成績を見ていると実際そうだったんだと思う。

 

 

じゃあそんな中でどうやって勝負するの?って聞かれたら、私はプロダクトのコンセプトや見た目のデザインって答えるしかない。

私が書けるコードは簡単なものしかないし、効率的なコードとか、難しい関数とか未だによくわかってない(もちろん授業は受けてきた)。できるに越したことはないのだけれど、多分私には向いてない。

 

 

必ずしも苦手なフィールドでジタバタしなきゃいけないわけではない。得意なフィールドで勝負したっていい。

多分私が得意とするフィールドは、自分の興味のある分野をコンセプトやデザインを軸にして掘り下げていくこと。

それにプログラミングが必要になったら仕方ない。それはやるしかない。けど、最小限におさえる。

そもそも大前提として、ものづくりは楽しくないとやってられない。

 

 

今日の先生の「いいじゃん!」は、そのすべてにイエスをくれたような、そんな言葉だったような気がする。

 

 

そんなことを思っていたら、『西の魔女が死んだ』のこのフレーズを思い出した。

 

自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、
後ろめたく思う必要はありませんよ。

サボテンは水の中に生える必要はないし、
蓮の花は空中では咲かない。
シロクマがハワイより北極で生きる方を選んだからといって、
だれがシロクマを責めますか。 

 

 

もうすこし、シロクマのままでいてもいいかな。 

 

 

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

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